原文

渡水復渡水
看花還看花
春風江上路
不覚到君家

高啓が見た花はきっと桃

読み下し

水を渡り復水を渡り
花を看還花を看る
春風江上の路
覚えず君が家に到る

読み

ミズを ワタり マタ ミズを ワタり
ハナを ミ マタ ハナを ミる
シュンプウ コウジョウの ミチ
オボえず キミが イエに イタる

意味

 あちらで川を渡り、またこちらで川を渡り
 そして、あちらで花を眺め、またこちらで花を眺める
 このようにして、ここちよい春風のそよ吹く川のほとりの道をのどかに歩いているうちに
 いつのまにかあなた(胡隠君)の家にたどりついてしまった

作者

 高啓(1336~1374)明初の詩人。字は季迪てき、号は青邱子で知られる。長州(江蘇省呉県)の人。楊基・張羽・徐賁とともに呉中の四傑、または明初の四傑と称せられる。博学で詩に巧みであり、歴史に精通していた。元末の戦乱のとき、群雄のひとりである張士誠が都を蘇州に置くと、その重臣である饒介ぎょうかいに詩才を認められて、その知遇を受けた。のち至正18年(1358)23歳のときに蘇州近郊の青邱に住み、青邱子歌(森鴎外に訳がある)を作った。号の青邱子は地名からとったのである。
 洪武2年(1369)明の太祖が元史編集の仕事を始めた折、招かれて翰林院国史編修官となり、主に暦志を担当した。翌3年に戸部侍郎(大蔵次官)に抜擢されたが、固辞して故郷に帰った。その後、親しく交わっていた蘇州の知事の魏観が、謀反の疑いを受けて殺されたのに連座して、腰斬の刑に処せられた。一説に彼の作った七言絶句、「宮女図」で明の太祖の好色を風刺したので、太祖の怒りにふれたのだという。洪武7年(1374)39歳であった。著に『高太史大全集』18巻、『鳧藻ふそう集』5巻がある。
 『四庫提要』に「啓、天才高逸、実に明一代詩人の上に処る」と評しているが、高啓は、まことに明代第一の詩人で小杜甫の称がある。その詩は古人の長所を兼ね備え、南方的なしとやかで美しい詩情と慷慨の意気に満ちている。
                       (『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)

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