原文

蝸牛角上争何事
石火光中寄此身
随富随貧且歓楽
不開口笑是痴人

開口笑kaikouxiaoという名前のお菓子、沖縄ではさーたーあんだーぎー、穴のないドーナツ

読み下し

蝸牛角上何事をか争う
石火光中此身を寄す
富に随い貧に随い且らく歓楽せよ
口を開いて笑わざるは是れ痴人

読み

カギュウ カクジョウ ナニゴトをか アラソう
セッカ コウチュウ コの ミを ヨす
トミに シタガい ヒンに シタガい シバラく カンラクせよ
クチを ヒラいて ワラわざるは コれ チジン

意味

 世の中の人はかたつむりの角の上の小さく狭い所で、いったい何を争おうとするのか。
 火打ち石の火が発してすぐ消えてしまう、その一瞬の間に人はこの世に生きているようなものだ。
 だから、金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに、分に応じて、まあまあしばらく楽しむべきである。
 大きな口を開いて笑わないやつはバカ者だよ。

作者

 白居易(772~846)中唐の詩人。字は楽天。酔吟先生、香山居士は号である。下邽かけい(陝西省渭南県の北50里)の人、また、先祖の出身地を称して太原(山西省太原県)の人ともいう。明敏で生後5,6か月で、すでに「之、無」の2字を知ったという。5,6歳のころ詩を作ることを学び、9歳のとき声韻を識った。15,6歳のとき都へ出て、時の文壇の領袖顧況こきょうに謁し、大いに認められた。初め楽天の名(居易)を見た顧況は、「長安は物が高くて、居くらしはとても易たやすくないぞ」とからかったが、その持参した詩(備考参照)を見るに及んで、「これほどの才能なら、名のとおり天下に居ることはむづかしくない」といったという。「十五、六始めて進士あるを知り、苦節読書す。二十已来、昼は賦を課とし、夜は書を課とし、間にまた詩を課とし、寝息に遑あらず、以て口舌瘡を成し、手肘胝を成すに至る」(与元九書)と述懐しているように、日夜学問に励んだため、老年にならないうちに、はやくも頭は白くなり、歯は抜け落ちてしまったということである。
 貞元16年(800)進士に及第、同19年(803)校書郎に補せられた。元和元年(806)翰林学士となり、さらに左拾遺に転じた。元和10年(815)宰相の武元衡が刺客に殺された事件が起こったが、そのとき、犯人を捕らえることを上疏したところ、それが越権行為であると憎まれ、また母が花見をして井戸に落ちて死んだのに、賞花・新井の詩を作ったのは名教をそこなうものであると讒言され、ついに江州(江西省九江県)の司馬に左遷された。時に44歳、その後、元和13年(818)忠州(四川省忠県)の刺史に転じた。このころ仏教に帰依し、出世間的思想が濃厚となってくる。元和15年(820)都へもどり、尚書司門員外郎から主客郎中知制誥ちせいこうとなり、翌年中書舎人となった。時に河朔かさくの乱で、出兵の功のないのを見て、再び上疏したが聞き入れられなかった。
 そこで地方に出ることを願い出て、杭州(浙江省杭県)の刺史に任ぜられた。そこでは西湖の堤を増築して眺望をよくする一方、州民の飲料水や灌漑用水の確保に努力した。宝暦元年(825)蘇州(江蘇省呉県)の刺史となったが、翌年、55歳のとき、病気のため辞し、洛陽へ帰った。その後洛陽にあって秘書監、太子少傅ふなどの閑職につき、会昌2年(842)刑部尚書をもって正式に退隠した。晩年はますます仏教に帰依し、香山寺の僧如満らと香火社を結んで交わった。香山居士の号は、ここからつけた。会昌6年(846)75歳で没した。
 白居易には、詩を作るたびごとに、一老婆にその詩を聞かせ、それが理解できるまで改作したという逸話があるほどで、その詩は平易通俗、温厚和平と称される。そのため、広く人々に愛誦された。白居易の生前にその詩文はわが国にも伝わり、平安以後の文学に最も大きな影響を与えた。白居易は自分の詩を、諷諭・閑適・感傷・雑律の四種に分け、このうち儒教的文学観に立って、政治の参考に資する諷諭詩を特に重んじ、世人が長恨歌、琵琶行などの感傷詩をもてはやすのを不本意に思ったという。

《備考》
 漢代の古詩に、この詩と相通ずる内容のものがある。白楽天は、おそらくこの詩を意識していたに違いない。
 生年不満百、常懐千歳憂、昼短苦夜長、何不秉燭遊、為楽当及時、何能待来茲、愚者愛惜費、但為後世嗤、仙人王子喬、難可与等期。
(生年百に満たざるに、常に千歳の憂を懐いだく、昼は短く夜の長きに苦しむ、何ぞ燭を秉とって遊ばざる、楽しみを為すはまさに時に及ぶべし、何ぞ能く来茲(来年)を待たん、愚者は費を愛惜し、但後世に嗤わる、仙人の王子喬、与に期を等しくすべきこと難し。)
                       (『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)

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