原文
千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中
揚州大明寺(鑑真が日本に来る前に住職を務めていた)と痩西湖。1996年玉島テレビ放送(株)制作『漢詩のある風景』取材で撮影




















読み下し
千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗の風
南朝四百八十寺
多少の楼台煙雨の中
読み
センリ ウグイス ナいて ミドリ クレナイに エイず
スイソン サンカク シュキの カゼ
ナンチョウ シヒャク ハッシンジ
タショウの ロウダイ エンウの ウチ
意味
見渡すかぎり遠く広がる平野の、あちらからもこちらからも、うぐいすの声が聞こえ、木々の緑が、花の紅と映じ合っている
水辺の村や山ぞいの村の酒屋のめじるしの旗が春風になびいている
一方、古都金陵には、南朝以来のたくさんの寺院がたち並び
その楼台が春雨の中にけぶって見える。
作者
杜牧(803~852)晩唐の詩人。字は牧之、号は樊川。京兆万年(陝西省長安県)の人。憲宗朝の宰相をつとめ、歴史学者としても有名な杜佑の孫にあたる。太和2年(828)、進士に及第、続いて上級試験である賢良方正科に及第、高級官僚のコースを踏み出す。弘文館校書郎、左武衛兵曹参軍に任官後、江西観察使の沈伝師に招かれ、幕僚として洪州(江西省南昌市)におもむく。太和4年(830)、沈伝師の転任に従って宣州(安徽省宣城県)に移り、3年間ここに住んだ。太和7年(833)、淮南節度使牛僧孺の招きに応じ、節度推官、監察御史裏行(見習)として揚州(江蘇省揚州市)におもむく。太和9年(835)、33歳のとき、監察御史となり、洛陽において勤務する。開成2年(837)、4歳違いの弟杜顗が眼病にかかって退官していたのを見舞い、休暇の期限をこえて免職となる。まもなく、宣歙観察使崔鄲に招かれ、団練判官、殿中侍御史内供奉として、ふたたび宣州におもむく。このとき、弟の一家もひきつれていった。
開成4年(839)、左補闕、史館修撰に転任、長安におもむく。会昌4年(844)に池州(安徽省貴池県)、会昌6年(846)に睦州(浙江省建德県)、とそれぞれ2年ずつ刺史をつとめ、この間、外交や軍事から、長江の密貿易の取り締まりに至るまで、内外の政策について意見を上奏、大いに採択された。大中2年(848)中央にもどって、司勲員外郎、史館修撰となったが、弟の一家をかかえて生活が苦しく、収入の多い、豊かな州の刺史への転出を願い出て、それが許可になり、大中4年(850)、湖州(浙江省呉興県)刺史となって地方に出る。約1年在住の後、考功郎中、知制誥に任命されて長安にもどる。この年、弟が死んだ。大中6年(852)、中書舎人に進み、11月に没した。50歳。死期に近くなって、旧作の詩文を、10のうち2、3を残して焼き捨て、また自分の墓誌銘を書き残した。
杜牧の生涯は、30代前半までの、エリート官僚として踏みだし、江南で思う存分遊んだ時期と、後半の、弟の面倒を見なければならなくなり、栄達への挫折を味わった時期との二つに分けることができよう。次の詩は、彼の心境をよく物語るものである。
遣懐(懐を遣る)
落魄江南載酒行、楚腰繊細掌中軽、十年一覚揚州夢、贏得青楼薄倖名
(江南に落魄して酒を載せて行く。楚腰繊細掌中に軽し。十年一覚揚州の夢、贏し得たり青楼薄倖の名)
(大意)江南地方に遊び暮し、酒を舟にのせてどこへでも行ったし、むかしの楚の国の美女もかくやとばかり、ほっそりした腰の女を抱いたものだ。それから十年、ハッと揚州の夢がさめてみると、残ったものは、青楼での浮気おとこの評判ばかり。
(『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)
杜牧が人生の前半、エリート官僚として青年時代を過ごした江南地方揚州は、幾層もの思い出に包まれた特別の地だったろう。この作品で江南地方の春、『山行』では秋のイメージを見事に切り取って描いた。その風景は、日本の山陽道一帯とそっくりで、気候変動の激しい昨今では、「ほんの数年前まではこんな四季があった」と、吟ずる度に胸を衝かれる郷愁にかられる詩ともなった。豊かな森と山裾に点在する里山の家々、美しい水と偶に驕る旨い酒、秋には目に染みる紅葉黄葉で山は錦となり、生活の身近に寺社仏閣がある。あの風景をどうにかしてもう一度呼び戻せないだろうか、生きている内にもう一度出会えないだろうか。(Rosen.H)
