原文
白日依山尽
黄河入海流
欲窮千里目
更上一層楼
赤い点が鸛鵲楼

読み下し
白日山に依って尽き
黄河海に入って流る
千里の目を窮めんと欲し
更に上る一層の楼
読み
ハクジツ ヤマに ヨって ツき
コウガ ウミに イって ナガる
センリの メを キワめんと ホッし
サラに ノボる イッソウの ロウ
意味
この鸛鵲楼から眺めると、いましも日は赤々と、黒い山なみの向こうに沈み
目の下には滔々たる黄河の流れが、北からこの地で東へと曲がり、海に注ぐ勢いで流れている。
この雄大な眺望をさらに遠く千里の向こうまでもきわめようと、もう一階上に上った。
作者
王之渙(688~742)盛唐の人。名の渙を奐とする本もある。絳郡(山西省新絳県)の人。一説に薊門(河北省薊県)の人。字は李陵。侠気に富み、若いころは都の若者たちと、剣を振り回したり、歌をうたったり、酒を飲んだりしていたが、その後行いを改めて詩文の道に励み、十年にして名声をあげた。役人としては出世せず、長い間在野の詩人として活躍した。最後は文安県(河北省)の尉になり、官舎で死んだ。王昌齢・高適と深い交わりを結び、詩風も似て、ことに辺塞詩にすぐれた。惜しいことに、その詩は散逸し、今はわずか六種が伝わるのみである。
(『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)
鸛鵲=かんじゃく
やたらと画数の多いこの字、「鸛鵲」は「かんじゃく」と読んで、こうのとりのことらしい。
黄河のユニークな形と、その岸辺に今も立つ鸛鵲楼
この詩を味わうにはまず、位置を把握しておこう。中国の2大河川、北に黄河があり、南に長江がある。黄河は実に変わった形をしていて、「コ」の字形にグイッグイッと折れ曲がる。大きな山脈にぶち当たるために、これほど豪快に極端に曲がらざるを得ないらしいが、その南進し東へ曲がる直前の、昔は巨大な中州があった地点に、今も鸛鵲楼は立っている。楼閣からは、真下に黄河を臨むことができるが、実際に海まで見えるわけではなく、「海に流れ込むか」という勢いで流れている、という形容である。これほどまでに雄大な光景を、たった20文字で表しきった。
ヒットチャート一位は王之渙だった
王之渙に関して有名なエピソードがある。
あるとき、友人の高適・王昌齢と三人で酒楼に上って遊んでいると、隣の部屋に宮廷の楽人や妓女が来合わせた。三人は、「われわれは皆詩人の名声をほしいままにしているが、甲乙がつかない。今、あの妓女たちがうたう詩を聞いて、最も多い者を一番としよう」と相談した。やがて、一人の妓女が王昌齢の絶句を二首、一人が高適の絶句を一首うたった。やきもきした王之渙は、「あの連中のうたう歌は皆下品な歌だ」とけなす。すると、美しい妓女が王之渙の「黄河遠く上る・・・」の絶句をうたい、続けて王之渙の絶句を二首うたった。それ見ろ、とばかり大笑いしていると、その騒ぎを聞いて楽人たちがやって来、わけを聞いて、「詩人の先生方とは知らず、失礼しました」と、挨拶し、終日いっしょに愉快に遊んだという。
さて、このエピソードから色々なことがわかる。
韻文詩は、声に出して発声されてナンボである。韻と平仄の規則を持ち、発声することで(詩吟することで)初めて、韻文詩本来の魅力を発揮できる。放送もSNSもなく書物さえ稀少だった時代環境も手伝って、名詩は、文化人が酒楼に集い、妓女が歌い、する中で広まった。
日本で詩吟が広まったのは、政治を悲憤慷慨するシチュエーションと結びついているが、このエピソードから想像するに、妓女がうたう詩吟は嫋々したものであったろう、な、とか。
高適・王昌齢・王之渙、この三人が連れ立って酒楼へ行った、という設定は、1つには、官僚世界は超狭い、ことがわかる。こんな世紀の有名人が偶然一緒に酒楼へ行くなんて、あり得る?できすぎ?と思うかもしれないが、充分あり得る。当時、科挙に合格して官僚の道が拓ける人は、百万人に1人の超難関でした。試験は落第するのが普通で「五十の進士はまだ赤ちゃん」という言葉さえあったほど、何回も受験したので、科挙準備中の人は自ずと顔見知りになり、合格して官僚になれば、みんな知り合い、みんな友だち、です。因みに、この3人は、王之渙が10歳年長、高適、王昌齢の順に若く、2人は1歳差。王之渙は55歳で亡くなっているので、出会うとしたらそれ以前で、高適は40代半ば過ぎて合格したので、この3人はたぶん官僚ではなく、受験生3人組ではないか?と思う笑 (Rosen.H)
