原文
慕義名空在
輸忠孝不全
報恩無幾日
帰国定何年
月岡芳年画『月百姿 あまのはらふりさけみれば・・」
国立国会図書館臓
パブリックドメイン

読み下し
義を慕う名空しく在り
忠を輸すも孝全からず
恩に報ゆる幾日も無し
国に帰るは定めて何れの年ぞ
読み
ギを シトう ナ ムナしく アり
チュウを イタすも コウ マッタからず
オンに ムクゆる イクニチも ナし
クニに カエるは サダめて イズれの トシぞ
意味
人の踏み行うべき道である「義」を求めて励んできたが、空しい名声だけがあるばかり。
故国を離れ、唐土に来ていることは、君には忠を尽くすことになるが、親に孝行を尽くすことができなくなってしまっている。
私も年を重ね、この先、親の恩に報いたくてもその日が何日もなくなってしまった。
果たして日本へ帰国できるのはいつであろうか。
作者
阿倍仲麻呂(701~770) 奈良時代の遣唐留学生。中務大輔船守の子。仲麻呂は仲満とも書く。幼少のときから聰明で読書を好んだ。霊亀2年(716)8月、16歳で、吉備真備、僧玄昉とともに選ばれて遣唐留学生となった。養老元年(717)3月、遣唐押使多治比真人県守、大使大伴山守らの一行に従い、出発した。『冊府元亀』によれば、一行が唐の都、長安に入ったのは、開元5年(717)10月のことである、入唐後、朝臣仲満と称していたが、やがて晁衡(朝衡)と唐風に改名した。大学において学び、科挙に応じて進士に及第し、唐朝に仕え、左補闕を授けられた。後に、秘書校書を経て秘書監となり、衛府卿を兼ねた。天宝12年(752)、遣唐使藤原清河に従って帰国しようとしたが、暴風雨にあい、安南に漂着した。ふたたび長安に戻り、唐朝に仕え、のち左散騎常侍安南都護となり、安南の宣撫にあたった。やがて、光禄大夫となり、御史中丞を兼任、北海郡開国公をさずけられるなど唐朝の中枢で活躍し、太暦元年(770)正月、唐に客死した。死後、路州大都督の官を贈られた。
仲麻呂は在唐54年に及び、その学才は当代の文人と比較しても遜色なく、また、井r泊・王維らとも親しく交際した。常に日本を忘れず、遣唐留学生のためにも尽力した。詩歌にすぐれ、和歌は『古今集』に、漢詩は『文苑英華』にのせられている。
(『吟剣詩舞道漢詩集続絶句編』)
仲麻呂が遣唐留学生に選ばれて渡航したのは16歳の時。当時の唐は絶頂期です。仲麻呂は超難関と言われる科挙に合格しエリート官僚になったばかりでなく、玄宗皇帝のそば近く使える重臣に出世します。やがて、英明だった玄宗に老いの影が忍び寄り、政務がおろそかになった頃、仲麻呂は日本へ帰国の許可を得、日本へ向けて出航したまではいいが船が難破。2年後命からがら唐へ帰国しますが、唐は安史の乱で壊滅状態でした。皇帝も官僚たちも亡くなるか散りじりになっています。時代が変わっていたのです。
唐は、文化も経済も絶頂だった盛唐期から、安史の乱(755~763)を経て政治経済が激変し、以降を中唐と呼びます。仲麻呂は奇しくも、絶頂期盛唐、安史の乱、中唐の時代を経験し、玄宗の息子の粛宗、孫の代宗、3代の皇帝に使えて74歳でなくなりました。(Rosen.H)
