原文

蒼龍猶未昇雲霄
潜在神州剣客腰
髯虜欲鏖非無策
容易勿汚日本刀

長崎歴史文化博物館所蔵『寛文長崎図屏風』
パブリックドメイン

読み下し

蒼龍猶未だ雲霄に昇らず
潜んで神州剣客の腰に在り
髯虜鏖にせんと欲す策無きに非ず
容易に汚す勿れ日本刀

読み

ソウリュウ ナお イマだ ウンショウに ノボらず
ヒソんで シンシュウ ケンカクの コシに アり
ゼンリョ ミナゴロシにせんと ホッす サク ナきに アラず
ヨウイに ケガす ナカれ ニッポントウ

意味

 わが国の海辺を侵して通商を迫る外国船の振舞いは目に余るものがある。しかしながら、これを討つにはいまだ時期尚早である。今は竜が深い淵にひそんで、まだ天上に登らない状態にも比ぶべきときでしばし自重が必要である。
 神州剣士の腰にさす日本刀こそ隠忍自重の姿である。
 かの外敵をみな殺しにする方策は決してないわけではない。この腰間の日本刀が鞘ばしったときこそ、竜が雲を呼んで大空に登るときで、その機の熟するを待つべきであり、
 この刀はたやすくは抜くべきではない。めったなことでは、この神聖な刀は汚すべきではない。

作者

 徳川光圀(1628~1700)水戸藩第2代の藩主。名は光圀、字は子竜、初め德亮、また観之といい、常山人・日新斎・梅里などと号した。権中納言に叙せられてから、その唐名により水戸黄門といわれる。寛永5年(1628)頼房の第三子として生まれた。幼少から英邁で、兄の頼重を越えて後嗣となったが、『史記』の伯夷伝を読み、深く感ずるところがあり、寛文元年頼房が薨じた際、兄の子綱方を家嗣とし、綱方の没後その弟綱条えだを後嗣に立てた。早くから修史の事に志し、明暦3年、江戸に彰考館を設け、多くの学者を集めて四方の史料を採録させ、『大日本史』の編集に着手した。この事業には藩の収入の半ばを注ぎ込んだといわれ、実にわが国における本格的大規模な史書編集事業となった。この書により、光圀は大義名分を明らかにして、明治維新の気運を作るのに貢献した。この企画の動機は伯夷伝の感化によるとされる。元禄3年致仕し、太田の西山に退隠、西山隠士と号した。同5年、楠公の碑を湊川に建て、「嗚呼忠臣楠子之墓」と題し、自分の師、朱舜水に賛辞を書いてもらい、広厳寺の僧に永代供養をさせ、楠氏の忠誠を千古に不朽ならしめた。同13年12月、西山に薨じた。享年73歳、諡を義公といい、贈正一位。その霊を祀った水戸の常盤神社はかつて別格官幣社に列せられていた。
 光圀は『大日本史』のほか、『扶桑拾葉集』、『礼儀類典』、『新編鎌倉志』、『参考源平盛衰記』、『参考太平記』、『参考保元物語』、『参考平治物語』、『西山随筆』、『常山文集』などの撰があり、中でも『常山文集』20巻は、天和3年、光圀に賜った霊元天皇の御製歌詞10行137字を巻首に掲げ、巻之一、五言古風、巻之二から巻之四まで五言律、巻之五・巻之六は七言律、巻之七は五言排律・七言排律、巻之八は五言絶句・七言絶句、巻之九から巻之十四まで七言絶句、巻之十五は四言・五言雑体、巻之十六は詩余、巻之十七は賦・表・啓、巻之十八は書・尺牘・疏、巻之十九は説・序・題・跋・頌・賛、巻之二十は銘・記・誄・碑陰・祭文となっている。詩は各体にわたっており、その才能の豊かさを示している。
                       (『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)

千夜詩話 第5夜  黒船の180年前、「今はまだ闘うべきときではない」と光圀