原文
幕雲掩日日将傾
南海臥龍翔帝京
一夜狂風雖折幹
維新大業頼君成
龍馬といえばこの写真(パブリックドメイン)

読み下し
幕雲日を掩うて日将に傾かんとす
南海の臥龍帝京に翔る
一夜狂風幹を折ると雖も
維新の大業君に頼って成る
読み
バクウン ヒを オオうて ヒ マサに カタムかんとす
ナンカイの ガリョウ テイキョウに カケる
イチヤ キョウフウ ミキを オると イエドも
イシンの タイギョウ キミに ヨって ナる
意味
徳川幕府の黒雲が、わが日本をおおい、国運の傾こうとするとき
南海土佐の今孔明と称される龍馬は、大志をいだいて立ち上がり、大政奉還によって新しい時代を招来せんとして京都を駆け巡った。
だが、無念。一夜狂った風が、この大樹の幹を折ってしまった。坂本龍馬が凶刃に倒れたのだ。
だが、大政奉還は実現し、維新は成った。その大業は龍馬あってこその成功だったのである。
作者
河野天籟(1868~1948)教育者。名は道雄。天籟は号。明治元年、熊本県玉名郡長州町の生まれ。熊本師範卒。同県内の教師を勤めたあと、県内の阿蘇郡中道小学校・球磨郡多良木小学校などの校長を歴任。昭和23年病没。師範学校時代に詩を学び、漢詩にも造詣が深く、多くの作品を残している。
(『吟剣詩舞道漢詩集律詩・古詩編』)
「維新の大業」の中身は、船中八策など政治的な面ばかりではない。日本初の株式会社を設立、近代ビジネスモデルを打ち立て、資本主義経済へと発展させる先駆的な例となったことが、近頃では高く再評価されている。
坂本龍馬の経済的軌跡、まずは亀山社中設立
慶応元年(1865年)5月頃、土佐藩の脱藩浪士である坂本龍馬は、長崎において「亀山社中」を設立した。薩摩藩の家老である小松帯刀らの庇護と資金援助を得て誕生したのが亀山社中であった。
経済的な面から亀山社中を評価する場合、最大の特徴は「海運業と貿易を業務として自活の道を開く」という自立的なビジネスモデルを採用した点にある。龍馬たちは、薩摩藩の資金援助をシードマネー(初期投資)として汽船や帆船を購入・運用し、近代的な船舶の運航技術や実務的な航海経験を蓄積する傍ら、他商人の荷物を運搬して運賃収入を得ることで同志の生活費を捻出した。特定の主君から与えられる封建的な「家禄」に依存する生き方から完全に脱却し、自らの商業的サービスによって市場から収益を上げるという、近代的な海運企業の萌芽がここに見出せる。龍馬は藩に仕えるのではなく、まさに自ら「会社を興した」と評価できる。
海援隊へ画期的発展
慶応3年(1867年)4月、亀山社中は土佐藩の参政・後藤象二郎や福岡孝弟らの協力を得て同藩の付属外郭機関として改組され、「海援隊」へと発展的解消を遂げた。この際、海援隊の理念や組織規則を定めた『海援隊約規』が制定されたが、これは日本における初期の会社定款とも呼べる画期的な文書である。
同規約には入隊資格として「およそかつて本藩を脱する者、および他藩を脱する者、海外の志ある者、この隊に入る」と記され、脱藩という重罪を犯した者であっても、志と能力があれば身分の上下なく受け入れるという実力主義とダイバーシティが掲げられた。さらに業務内容として「運輸、射利、開拓、投機、本藩の応援をなすを主とす」と明記されている点が極めて重要である。「射利(利益を追求すること)」や「投機(価格変動を見越して利益を得ること)」という、江戸時代の武士階級が最も忌み嫌った商業的・営利追求の概念が、組織の主目的として堂々と宣言されたのである。
明治資本主義への萌芽は他でも
梅田雲浜の物産交易
龍馬の海援隊構想より約10年遡る時期に、全く異なる国内の陸上・沿岸ネットワークを通じて商業に目を向けた武士が存在した。若狭国小浜藩(現在の福井県)出身の儒学者であり、幕末の尊王攘夷運動の先駆的指導者であった梅田雲浜である。志士たちの経済的窮地と政治的運動を持続させるための莫大な資金需要を同時に解決するため、雲浜が着目した手段が大和と長州を結ぶ物産交易であった。彼の構想した交易ネットワークが全国規模の巨大な商社へと成長することはなかった。しかし、政治的目標を達成するためのロジスティクスとして「マクロ経済の循環」を構想し、それを実践した点は、武士階級における資本主義的着眼の極めて先進的な事例として高く評価されるべきである。
横井小楠の「民富論」と由利公正による福井藩政改革
武士が商業に取り組むうえで最大の壁となったのは、「金銭を扱うことは卑しい」という道徳観であった。この精神的障壁を理論的に打破したのが、福井藩政の政治顧問として招かれた熊本藩出身の思想家・横井小楠である。小楠は、開国通商と産業振興を図って富を蓄える「殖産興業」を提唱し、「民富めば国の富む理である」という重商主義・初期資本主義的な経世済民の論理を打ち立てた。
この小楠の思想に深く感化され、実務として藩政改革に邁進したのが、福井藩士の由利公正(維新前の名は三岡八郎)である。由利が財政再建に着手した当時、福井藩は90万両という絶望的かつ莫大な借金を背負っていた。この危機に対し、由利は現代のマクロ経済政策にも通じる斬新な経済政策を断行した。
備中松山藩山田方谷も劇的藩政改革
方谷が行った最も劇的な改革の一つが、暴落していた「藩札(紙幣)」の全額回収と焼き捨て(焚札)である。これにより一気に「信用の再構築(信用創造)」に成功し、領内の通貨秩序を回復させた。この「正貨準備に基づく通貨管理」は、のちに明治政府が日本銀行を設立して紙幣信用を確立するプロセスの先駆的な実験であったと言える。
専売制とブランド化(殖産興業)、千石船交易による藩間を越えたマーケット展開、他藩と他藩を縦断的に結びつける広域ネットワークを活用したこのビジネス手法は、まさに近代的な商社・貿易企業の運用そのものである。
この方谷の改革成果は、幕末の混乱期を生き抜いたばかりか、明治以降の旧藩地域(岡山県)の経済的・行政的基盤へダイレクトに受け継がれた。他の多くの諸藩が幕末・維新の混乱の中で多額の債務を抱えたまま明治政府に吸収されたのに対し、備中松山藩は財政的・産業的な健全性を保っていたため、明治後の県政・地域経済の立ち上げにおいて圧倒的な優位性を保持し続けたのである。
五代友厚大和コンパニー、岩崎三菱、井上三井
薩摩藩の下級武士から身を起こした五代友厚もまた、武士階級における資本主義的志向を体現した最重要人物の一人である。「大和交易コンパニー」という株式会社を設立して貿易の拡大に努めた。維新後は、実業家として大阪商法会議所を設立するなど「大阪財界の父」と称され、近代日本の経済発展に絶大な足跡を残した。
海援隊の解散後、隊の会計係を務めていた岩崎弥太郎は、その事業と人的資源を引き継ぎ、土佐商会、九十九商会、郵便汽船三菱会社へと発展させ、現代の三菱財閥(三菱商事や日本郵船など)の礎を築いた。
長州藩、のちに新政府の要職に就く井上馨(聞多)らは、物産交易や商業取引の重要性を深く理解していた。明治維新後、井上馨らの主導により、商館を通さずに外国の貿易会社と直接取引を行う機運が高まった。この直接取引志向の潮流の中から誕生したのが、日本を代表する総合商社である「三井物産」である。
坂本龍馬や梅田雲浜らが着手した事象は、単なる「倒幕派の資金稼ぎ」や「窮余の策」として評価されるべきものではなく、のちの巨大財閥や近代国家の財政・金融政策へとダイレクトに接続する、日本型資本主義のプロトタイプ(原型)の創造過程であったといえる。(Rosen.H)
