原文
客舎并州已十霜
帰心日夜憶咸陽
無端更渡桑乾水
却望并州是故郷
桑乾河を渡って更に北へ行く賈島

読み下し
客舎并州已に十霜
帰心日夜咸陽を憶う
端無くも更に渡る桑乾の水
却って并州を望めば是れ故郷
読み
カクシャ ヘイシュウ スデに ジッソウ
キシン ニチヤ カンヨウを オモう
ハシナくも サラに ワタる ソウカンの ミズ
カエって ヘイシュウを ノゾめば コれ コキョウ
意味
并州に旅暮らしすることはや十年。
都の長安に帰りたいという気持ちは昼も夜もつのるばかり。
それが思いもよらず、さらに桑乾河を渡って北へ行くことになった。
ふりかえって并州を望むと今は故郷のような感じさえする。
作者
賈島(779~843)中唐の詩人。字は浪仙。范陽(北京)の人。はじめ連続して試験に失敗したことから僧となり、無本といった。洛陽の青竜寺にいたが、後に長安に出て、詩作にふけった。
あるとき、ロバに乗って、落ち葉の舞うまちを行き、「落葉満長安」(落葉長安に満つ)の句をまず作り、その対句を考えているうち、ふと「秋風吹渭水」(秋風渭水を幅)の句を得、嬉しくなって夢中で、都の長官の行列に突き当たり、一晩拘留されたことがある。
またその後、「鳥宿池中樹、僧推月下門」(鳥は宿る池中の樹、僧は推す月下の門)の句を考えつき、2句目の「推」を「敲」(たたく)にしたらどうかと、推したり敲いたり手で格好をつけながら歩いて、当時の都の長官韓愈の行列に突き当たった。わけを聞いた韓愈は、しばらく考えて、「敲」がうよかろうと答え、それから意気投合して交わりを結んだ。
韓愈のすすめで還俗し、進士に合格した。後に遂州長江(四川省)の主簿になったので、人呼んで賈長江という。その後、普州(四川省)司戸を命ぜられたが赴任しないうちに死んだ。死にあたって家に一銭のたくわえもなく、ただ病気のロバと古い琴1つがあっただけという。
賈島の詩は、当時盛んにもてはやされた。元稹、白居易の平易で通俗的な詩風にあきたらず、語を練りあげて、人の目をひく鋭さをいのちとした。同じ韓愈門下の孟郊と並んで「郊寒島痩」(孟郊の詩は寒々しく、賈島の詩はやせて鋭い)といわれた。またみずから、「二句三年得、一吟双涙流、知音如不賞、帰臥故山秋」(二句三年にして得、一吟双涙流る、知音如し賞せずんば、故山の秋に帰臥せん)とうたっているが、その詩にうちこむ態度が知られよう。
(『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)
唐は、755~763年の安史の乱を境に急速に没落へと向かう。安史の乱後を中唐と呼び、賈島はその頃運命の人韓愈と出会った(この時の出会いは「推敲」の故事として有名になる)。
賈島は北京生まれ。科挙をめざして上京したが、何回も科挙に落ちたので腐っていったんは僧になった。そんなある日、811年頃賈島32才の頃、都で偶然韓愈と出会い、才能を見いだされ、還俗して、再び科挙をめざした。
ところが、以来20数年間、いくら挑戦しても科挙に合格しなかった。『桑乾を渡る』の詩は、科挙に落ち続けていた50才台後半、各地を漂泊していた頃の作品だと考えられている。
賈島にとって、都長安で、自分の才能を愛してくれた韓愈の元で勉強していた時代が、一番輝いていたのだろう。「都へ、あの時代へ帰りたい」、賈島の心の叫びが聞こえてくる。(Rosen.H)
