原文
三十六峰雲漠漠
洛中洛外雨紛紛
破簦短褐来揮涙
秋冷殉難烈士墳
「維新の大業はもはや荒廃した。松陰を思い起こせ」と叱咤した熱い著書

読み下し
三十六峰雲漠漠
洛中洛外雨紛紛
破簦短褐来って涙を揮う
秋は冷やかなり殉難烈士の墳
読み
サンジュウロッポオ クモ バクバク
ラクチュウ ラクガイ アメ フンプン
ハトウ タンカツ キタって ナミダを フルう
アキは ヒヤやかなり ジュンナン レッシの ハカ
意味
東山三十六峰は一面の雲におおわれてさびしくうす暗く
京都の町中も郊外も雨がびしゃびしゃと乱れ降っている
この雨の中を破れ笠をかぶり、粗末な衣服をまとい、殉難烈士の墓前に涙を流してぬかずけば
秋気はことのほか肌に冷たく感ずるのである
作者
徳富蘇峰(1863~1957)明治・大正・昭和時代の評論家・史家・漢詩人。名は正啓。通称は猪一郎。蘇峰はその号。出身は熊本県水俣。家は代々総庄屋兼代官の役をつとめた。父一啓は実学派の横井小楠の高弟で、維新後、県の役人に登用され県政に参画した。母の姉妹には小楠の夫人、教育家の竹崎順子・矢島楫子があり、弟健次郎(蘆花)は小説家として名高い。一啓らの製作の一つとして設けられたものに、熊本洋学校がある。
猪一郎は、この洋学校に学んで、アメリカ風の教育を受け、キリスト教を知った。明治九年(1876)に同志とともに、キリスト教を日本に広めるという誓を花岡山で立て、これを「熊本バンド」といったが、これがきっかけとなって洋学校は閉鎖され、彼はその同志たちと京都の同志社に移った。同年、新島襄から洗礼を受け、正式にキリスト教徒となった。新島襄から将来の期待をかけられていたが、「校長自責事件」として有名な学生運動にまきこまれ、同志社を退学して上京することとなった。19歳の折、故郷に帰り、大江義塾という私塾を創設した。塾は漢学塾とはまったく異なったもので、政治・経済・物理・算術などを教え、その運営は生徒の自治にまかされた。ここの生徒のひとりに宮崎滔天がいた。
そのころ、彼は板垣退助・中江兆民などの自由党員と交わり、その時代に復興した儒教主義に対して厳しい批判を加え、同19年(1886)、『将来の日本』を著した。この書物は売れ行きもよく、これを機に大江義塾を閉鎖して上京した。同20年(1887)、民友社という出版社を作り、『国民之友』という雑誌を発刊し、同23年(1890)からは『国民新聞』も発行した。同26年(1893)には『国民之友』に連載した『吉田松陰』を出版した。それは「建設的革命家」たる第二の松陰に自分自身を見立ててのことであった。
ところが、日清戦争前後から、いわゆる「民」と離れ、「官」の山県有朋、桂太郞らと結びつき、その言論に変化が生じたため、国民新聞社は二度にわたって焼き討ちを受けた。同44年(1911)には貴族院議員に勅選されたが、桂太郞の死にあい、政治的野心を捨て、その後は生涯を通じて『近世日本国民史』を書き続けた。第二次世界大戦中は文学報国会会長となり、文化勲章を授けられたが、終戦後は戦犯に指定されて引退した。引退後も健筆をふるったが、昭和32年に94歳で病没した。
蘇峰は一世の文豪で、学問も広く、その著書は三百余冊に及ぶ。漢詩人としても「今山陽」の称があるほどで、詩集には「徳富蘇峰先生作詩集」二冊、『蘇峰詩集』一冊、『蘇峰百絶』一冊などがある。
(『吟剣詩舞道漢詩集絶句編』)
「殉難烈士の墓」とは、明治元年、京都霊山護国神社に祀られた、維新の志士たちの墓所をさす。一千基を越える慰霊碑の中で最も有名な、坂本龍馬や中岡慎太郎のお墓には、実際に遺骨が納められている。『吟剣詩舞道漢詩集』の解説によれば、この詩は作者22才の時に書かれたものだという。倒幕を掲げて闘った龍馬たちに感情移入している通り、そのころの蘇峰は、極めて進歩的・開明的だった。しかし、日清戦争(1894)をきっかけとして、国家主義に傾き、晩年は大政翼賛会日本文学報国会の会長を務めた。
進歩的な弟徳冨蘆花と体制側兄徳富蘇峰、の対比で語られることが多いが、蘇峰の生涯にはすさまじい思想的変遷がある。郷里熊本でアメリカ風の教育を受け、この詩を書いた頃、19才から23才までは、京都で進歩的思想と教育方法で知られる私塾を創設経営していた。自由党の板垣退助等と親交があり、吉田松陰を理想とした。ところが、日清戦争(1894)頃から言動に変化が生じ、「民」から「官」へシフト、貴族院議員に勅撰された。第2次大戦中は文学報国会会長となった。いったい、蘇峰に何があったのか。多作だった蘇峰の思想遍歴を示す、若き日の一作である。 (Rosen.H)
